幸せのカタチ8

翌朝目を覚ますと、ドゥレの姿はもうなかった。
俺が起きてくるのをキッチンで待っていたマリーが、
「ドゥレは今日は早く職場に行くと言って、もう家を出てしまったの。」
と、申し訳なさそうに俺に伝えた。
ドゥレが俺から逃げたのは明白で、俺は大きくため息をついた。
でも、昨日の今日で朝から顔を合わせにくい彼の気持ちはよくわかった。
俺だって、頭の混乱から抜け出せない。
どうしたらいいのか俺にだってわからなかった。
夕べはそのことが頭から離れず、全然眠れなかった。
頭がひどく重い。
俺はマリーに促されるまま席に着き、用意された朝食に口をつける。
「・・・さん、サンインさん。」
ぼんやりとスープを飲んでいると、マリーの呼ぶ声が聞こえ、我に帰る。
「あ、すみません。なんですか?」
「パンをもう一ついかがですか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます。」
「夕べはあまりお休みになれなかったんですか?」
コーヒーを淹れながら、マリーが言う。
挽きたての豆の香ばしい香りが、鼻をくすぐって、頭がようやく覚醒を始める。
「え?・・・ええ。枕が変わったからかな・・・?」
見え透いた言いわけを言う俺の言葉は軽く流して、
「昨日はだいぶドゥレとやり合っていたみたいですね。」
と彼女は笑って、ドリップしたコーヒーをカップに注ぐ。
「どうして?」
「だって、扉の向こうから大きな声が聞こえてきましたから。」
いつのまにか、俺たちはそんなに声を荒げていたのか?
大人げない・・・急に自分が情けなくなって俯く。
「すいません、びっくりさせてしまいましたね。」
「ええ・・・まあ。でも大丈夫ですよ。たまにはそんなこともあった方がいいですから。」
マリーは苦笑しながら「食後のコーヒーをどうぞ。」とカップを差し出した。
そして俺の向かいに座ると、コーヒーを飲む俺の顔を覗き込むように見つめ、
「サンインさん。それでも、諦めたりしないでくださいね。」と言った。
「え?」
思いがけない言葉を掛けられて、顔を上げると、
マリーはさっきまでの表情とは打って変わって、凛とした厳しい表情で俺を見ていた。
「あなたは、ドゥレを迎えに来たのでしょう?
夕べあなた方が何をやり合っていたのかは知りませんが、ドゥレが何を言っても、
韓国へ彼を連れて帰ってやってください。帰らないと言っても説得をしてください。
お願いします。」
俺は急には言葉を発することができず、口の中でもごもごとしていた。
「・・・どうしてそんなことを?」
「あの子は韓国に帰るべきだからです。」
「でも、ドゥレの意志が私には見えない。
彼がどうしたいかわからないのに、どうしてあなたはそんな風に断言するのですか?」
帰るのか残るのかは、彼の意志であって、他の人がどう言おうと本人次第なのだ。
「あなたは知らないんです。ドゥレが・・・彼がどれだけあなたを待っていたのか。
どれだけ逢いたいと思っていたのか。そしてどれだけ韓国のあなたの家を恋しいと思っていたのか。
ここに帰って来た時は、声もかけられないほど憔悴していました。
しばらくして心が落ち着いてからも、ずっとあなた方を求めていたことを私は知っている。
側でずっと見ていたのですから。
あの慟哭を見て、何とかしてやりたいと思わない人はいないでしょう。」
マリーの真剣なまなざしに思わず視線を逸らす。
昔と変わらずに俺を迎えてくれた彼の仕草の裏に、どれだけの辛さや苦しみがあったのだろう?
別々に暮らしていたあの時間、どうしていたのかドゥレは語らない。
でも、出て行った日のことを思えば、昔のままでドゥレでいるために、
血を吐くような想いで、自分の心と向き合っていたに違いなかった。
「・・・ドゥレは本当に帰りたいと思っているのですか?」
「ええ。それは彼の部屋をのぞいてみれば、すぐにわかるはずです。」
ドゥレの部屋の扉に視線をやる。
あの中に何があるのだろう?ドゥレの心?
「でも、もし私が彼を韓国に連れて帰ったら、あなたはひとりになってしまう。
あなたは寂しくないのですか?彼を引きとめようとは思わないのですか?」
マリーの潔すぎる言葉に、ついつい訊いてしまう。
「そうね、彼が去ったらきっと寂しいでしょうね。
だけど、それは自分がまいた種だから、潔くそれを受け入れるわ。」
「?」
怪訝な顔でマリーを見ると、彼女は少し困ったように笑って、
「ドゥレに訊かなかった?私がどんなにひどい女か。
私はドゥレがここに来た時に、彼を拒んだのよ。引き取っておいて、『私はあなたの母親じゃない』って。
ひとりぼっちで、縋るように出したたった5歳の子の手を振り払ったの。
そして、主人が亡くなった時、支えようとした彼の手も。
『お前がそばにいたら、彼のことを思い出してしまうから出て行け』とね。
あの時は2人ともぼろぼろで、2人でいたら共倒れになることはわかっていたし、
ドゥレをここに縛りつけないことが主人の遺言でもあったから、後悔はしていない。
だけど理由も聞かされず存在を拒まれて、
ドゥレはものすごく傷ついたでしょうね。
そんな女が、今更「傍にいてくれ」とどうして頼めるの?」
突然のマリーの告白に、俺は言葉もない。
ドゥレが、あんなにも家を大切に思っていた理由がわかったような気がした。
だけど、俺たちも結局は彼女と同じように、ドゥレを追い出してしまった。
ドゥレの傷は、俺が思っている以上に深く大きいのかもしれない。
マリーはふと窓越しに空を見上げ、話を続ける。
「・・・それでも、こうして彼は私を許して側にいてくれた。
家族として、親として彼と過ごした時間は、それはとても幸せな時間だった。
だけど、ここは、彼にとってもう過去なの。過ぎ去った家族なの。
心の傷はいやせても、彼の未来はここにはない。
そのうち必ずここを飛び立ちたくなるわ。
今の家族はあなたたちなのよ。
あなたたちと未来を紡いでいくことが彼の幸せでしょう。
だから、今あなたの手を拒んだら、彼はきっと後悔する。
飛び立つ場所を失って、迷う姿を私は見たくはない。
だから、お願いします。彼を連れて行って。」
俺の瞳をまっすぐに見て、懇願するマリー。
その瞳は静かで寂しい光を放ち、俺は胸を突かれて彼女から目を離すことができなかった。
自分を過去の家族といい切る覚悟を、俺は受け止めることに精いっぱいで、
どう答えていいのかわからず、ドゥレの言葉を伝える。
「ドゥレは・・・『みんなが一緒に幸せになる方法はないのか』と言っていました。」
「優しい子ね本当に・・・。でも、幸せって何かしら?一緒にいること?
それならば、あの子の身体は1つだから裂けてしまうわね。
幸せのカタチは、ひとつだけなのかしら?
ドゥレやあなたの考える幸せと、私の考える幸せが同じだとは限らない。でしょ?
私は、彼が私の傍にいるよりも、あなたたちと一緒に、未来を見つめてくれた方が幸せなのよ。
自分が幸せになることもできないのに、人を幸せにできるのかしら?
私は私の幸せを自分で見つけたから、大丈夫。
あなたもドゥレもまず、自分のために生きなさい。
それが幸せっていうものでしょ?」
マリーの言葉は一つ一つ俺の心にドスンと飛び込んできて、その衝撃で胸が痛くなる。
「あなたは・・・どうしてそんなの強いのですか?」
「・・・私は指標だから。」
「え?」
「いいえ・・・親なんてみんなそんなものよ。あなたも父親になったのだから、そのうちわかるわ。
子供が幸せになることが、自分の幸せだと。・・・もっとも私は『ごっご』の母親だけど。」
マリーは言い訳するように、自嘲気味に笑った。